本名: | 武田 きみ |
大正7年2月11日 | |
出身地: | 東京都 |
出身校: | 女子学院 昭和10年3月卒業 |
所属: | (財)黛民族舞踊文化財団理事長 黛アート・サロン 主宰 黛節子舞踊団 団長 (社)日本舞踊協会員 日本民俗芸能協会理事 国際民族芸術組織[IOV(ユネスコ・BTカテゴリー)]理事、評議員、執行委員、文化助成委員長 |
芸歴: | 昭和21年、初代花柳寿美に入門。後、藤間流に移り藤間流家元藤間勘斎[先々代松本幸四郎]より名取りを許され藤間節子となる。 昭和24年帝国劇場に於ける第1回発表会を機に、高村光太郎、志賀直哉、小宮豊隆、小泉信三等諸先生方の御支援のもと、創作舞踊と民族芸能の研究発表に専念する。 その間、能を橋岡久太郎、地唄舞を山村れん、舞楽(右舞)を豊昇三、御冠船踊りを親泊興照の諸師に学び、又日本各地に伝わる伝承芸能(東北の剣舞、鹿踊り、山伏神楽、霜月神楽、新潟に綾子舞い、沖縄久高島のイザイホー、宮古島のウヤガン、竹富島の種とり祭)等の現地取材と、神事芸能の中の巫女舞の研究等から新しい日本民族芸術の確立を目指す。 昭和31年黛姓に改名し黛節子舞踊団を設立、日本の民族舞踊団として活動の基盤を確立し、以後、国内外に於いて数多くの民族舞踊作品を発表上演を続ける。 昭和56年より昭和62年迄、玉川大学文学部芸術学科の講師として生徒の指導に当たる。 昭和60年度から中国舞踏家協会雲南分会との交流を開始。 昭和61年、日本民族舞踊の国際普及と、世界の民族芸術交流促進を図る為、(財)黛民族舞踊文化財団を設立、許可を得て理事長に就任。 平成2年、ウィーンに本部を置く国際民族芸術組織[I・O・V]の招請により、I・O・V総会に日本代表として出席。I・O・Vからの要請で理事、執行委員、及び文化助成委員長等の役員に就任する。 |
賞: | 昭和27年度芸術祭文部大臣奨励賞 平成3年11月勲四等瑞宝賞叙勲 |
昭和24年 (1949) | 藤間節子リサイタル』高村光太郎作「智恵子抄」他、上演。[帝国劇場] |
昭和27年 (1952) | 『藤間節子リサイタル』小川未明作「赤いローソクと人魚」「ヒエツキ唄」 他 上演。(昭和27年度芸術祭文部大臣奨励賞受賞) [帝国劇場] |
昭和29年 (1954) | 『日本民族舞踊集』上演。 [東横ホール] |
昭和31年 (1956) | 『日本民族舞踊集<第2集>』上演 [東横ホール] 黛姓となり、黛節子舞踊団結成 皇后陛下御臨席、学習院常磐会にて舞踊披露 [椿山荘] |
昭和33年 (1958) | 宮沢賢治作「原体剣舞連」、志賀直哉作「荒絹」上演 [読売ホール] |
昭和34年 (1959) | 「田園詩曲」、「南風の乱舞」他、上演 [大阪フェスティバル・ホール] |
昭和35年 (1960) | 「土塊」「万華鏡」他上演[東京宝塚劇場、大阪フェスティバル・ホール] |
昭和38年 (1963) | 「駒踊り」「北から南から」「小原木」他上演 [東京上野文化会館] |
昭和42年 (1967) | 「日本の踊り」他、上演 [国立劇場小劇場] |
昭和43年 (1968) | 第1回『黛アート・サロンの夕』開催 [黛アート・サロン] |
昭和48年 (1973) | パリ三越オープニング記念公演出演 [パリ] |
昭和50年 (1975) | ローマ三越オープニング記念公演出演 [ローマ] 「日本の民踊」「桜樹散華」上演 [日生劇場] 皇太子殿下、同妃殿下御臨席、修養団70周年記念式典出演 |
昭和51年 (1976) | 「阿国幻想」上演 [日生劇場] |
昭和53年 (1978) | サウジ・アラビアに於ける第1回ジャパン・デーに日本代表として出演 [サウジ・アラビア王宮] |
昭和57年 (1982) | 「1982年ノックスビル国際エネルギー博覧会」(米国)のジャパン・ウィークに日本民族舞踊代表として出演 [ノックスビルEXPO会場] |
昭和59年 (1984) | 「延年」他、上演 [草月ホール] |
昭和60年 (1985) | 中国舞踏家協会雲南分会の招請により、中国雲南省を訪問。日本舞踊交流の会に出演 及び中国少数民族舞踊の研究取材 |
昭和61年 (1986) | 財団法人黛民族舞踊文化財団の設立が許可され、理事長に就任 中国舞踏家協会雲南分会、劉金吾常務副主席他3名を招請。財団主催により約一週間、日中舞踊交流の会を催す。 |
昭和62年 (1987) | 中国舞踏家協会雲南分会の招請により、再度中国少数民族芸能取材の為 舞踊団を引率して雲南省を訪問。ジノー族等の少数民族舞踊の取材及び日中舞踊交流公演 |
昭和63年 (1988) | |
6月 | 『雲南省少数民族友好舞踊の夕』 [草月ホール] 中国思茅地区民族歌舞団団長岩宰氏を招請 『セミナー』―少数民族舞踊の現代化―岩宰(タイ族)[黛アート・サロン] |
8月 | 中国舞踏家協会雲南分会第2回訪日団来日。北上市、松本市等に於いて、民族舞踊の取材と舞踊交流の会を持つ 「レモン忌」-智恵子没後50年記念― [黛アート・サロン] |
平成元年(1989) | 韓国文化広報部の招請で訪韓。国立慶州博物館李蘭暎館長、慶州大学校 金白峰教授、韓国舞踊協会姜善泳理事長、中央国立劇場、韓国国際文化協会等を訪問、民族芸術に関する両国の意見交換を行った。 |
平成2年(1990) | 中国舞踏家協会雲南分会第3回訪日団招請。東京に於ける交流舞踊公演及び富山県の“越中おわら”取材交歓会 国際民族芸術組織[I・O・V]の招請を受け、ウィーンに於いて開催された総会に出席。総会でI・O・V理事、評議員、文化助成委員長就任の要請を受け承諾 |
平成3年(1991) | 中国舞踏家協会雲南分会の招請で、日中舞踊交流の為舞踊団を引率し訪中。勲四等瑞宝章叙勲 |
平成4年(1992) | |
6月 | 『三味線ロード’Sおどり』―民芸芸術まんだら―[黛アート・サロン] |
8月 | 雲南省舞踏家協会第4回訪日団来日 『日中舞踊交流会』“ヒーヤイ踊り”取材交歓会 [静岡県中川根町] |
平成5年(1993) | |
5月 | 『日中舞踊交流公演』―ライスロードの芸術家と共も― [草月ホール] [中国側の事情により舞踊家の来日が不可能となったため公演中止] |
平成6年(1994) | |
3月 | 雲南省舞踏家協会の招請で、日中舞踊交流の為舞踊団を引率し雲南省を訪問、紅河、文山地区でミャオ族やイ族と舞踊交流 |
6月 | 『黛アートサロン・トークの夕』 [黛アート・サロン] 韓国の舞踊 そのⅡ 丁明淑 |
8月 | 雲南省舞踏家協会第5回訪日団来日 松本市、桐生市等に於いて民族舞踊の取材と舞踊交流の会を持つ |
10月 | 『黛アートサロン・トークの夕』 観世流能楽師 八世 橋岡久馬氏 [黛アート・サロン] |
11月 | 『黛アートサロン・トークの夕』 [黛アート・サロン] 伝統とモダンの出会い 柳宗理氏 |
平成7年(1995) | |
1月 | 雲南省舞踏家協会常務副主席劉金吾氏を招請 東京、埼玉、岩手県毛越寺等で中国少数民族舞踊についての講演会を開く |
平成7年(1995) | 10月16日 麹町半蔵門病院にて肺癌の為、永眠、享年77才 |
SETSUKO MAYUZUMI
Japan’s traditional dancing
Setsuko Mayuzumi is acknowledged as the only successful dancer produced by Japan’s Fujima School of Traditional Folk Dance. Setsuko made her debut in 1946, and held her first recital at the renowned Imperial Theatre in 1952. The success of this recital at the Imperial Theatre brought her to stardom in the world of traditional Japanese folk dance. Setsuko Mayuzumi went on to devote herself to collecting and arranging traditional
dances, introducing various dances dating back to ancient times. She has been highly praised for arranging many of the old dances into an accessible version for the present-day theatre. Setsuko’s dance company placed emphasis on historical and cultural subjects, and the company consisting of female dancers performing with colorful costumes designed to express the four seasons. They dance to typical Japanese music using instruments such as the Koto (Japanese flat harp), Shamisen (Japanese three stringed banjo ), Shakuhachi (bamboo flute), Fue (bamboo piccolo) and Taiko (Japanese drums and percussion), giving an authentic Japanese atmosphere to the audience.
In 1966, Setsuko Mayuzumi opened her own studio-hall in Akasaka, a district known as one of the centers for Tokyo’s night-life. where her dance company gave regular performances. Setsuko also had the honor of performing before the Japanese Empress and other Imperial Household members. In 1969 and 1973 Setsuko held dance recitals in Paris where she was well received by the audiences of the French capital.
In 1986, Setsuko established The Mayuzumi Foundation For Traditional Folkdance, taking position as the first foundation director. Her dance company, now belonging to the foundation and newly named as ‘Mayuzumi Traditional Folkdance Company’, devoted their activities to the development and succession of traditional folk dance.
In spite of her hopes for further development with her foundation, in October 1995, Setsuko Mayuzumi passed away. Her spirit still lives with the foundation, along with her glorious achievements in the world of traditional folk dance.
黛節子
(日本民族舞踊家)
日本舞踊藤間流が生んだ舞踊界の唯一の存在、黛節子。1946年に初舞台を踏み、1952年には帝国劇場で初の公演を行い、その公演での成功を機に日本舞踊界において確固たる地位を築いた。その後は創作舞踊や民族芸能の研究発表に専念し、数多く存在する古代からの様々な舞踊を世に紹介した。また、古くからの舞踊を現代風にアレンジしたことでも高く評価されている。女性だけで構成された黛節子率いる舞踊団は、歴史的題材や文化的題材を重視した表現方法を信条とした。舞踊家たちは日本の四季を表す色鮮やかな衣裳を身にまとい、琴や三味線、尺八、笛等、日本の楽器を使った楽曲を取り入れることにより、観客に日本独特の雰囲気を与えることでも知られていた。
1966年、黛節子は東京の代表的な高級繁華街として知られていた赤坂に黛アートサロンを開場し、舞踊団の定期的な公演の場として使われた。黛節子は皇太子殿下、同妃殿下が御臨席された記念式典に出演した他、1969年と1973年にはパリでも発表会を行い、フランスの首都においても見事に観客を魅了した。
1986年に財団法人黛民族舞踊文化財団を設立し、初代理事長に就任する。黛節子舞踊団改め、黛民族舞踊団を財団付属のものとし、民族舞踊の継承、発展に生涯を捧げた。
1995年10月黛民族舞踊団のさらなる発展を願いつつ、多大な栄光と功績を残しこの世を去った。